お互い様
12月はじめから毎週末、じいちゃん家にももと一緒に泊りがけで行っているのですが
もものリクエストでじいちゃん家周辺をよく散歩します。
浜も近く桜貝を拾いに行ったり、ももがととろの木とよんでいる樹齢1000年以上の
大楠に会いに行ったりしています。
ももが小さい頃、家の前の公園にある杉の木に抱きついたりしていました。
この木は大家さんのおばあちゃんがお嫁に来た時にポケットに入れて連れてきた
小さな杉の苗が大きくなったもので、公園として整備される時に
おばあちゃんがお願いをして残してもらった木なんだそうです。
そんなももが、じいちゃん家の近くにある1000年以上も同じ場所にいて
人々の生き死にや町の移り変わりを見てきた大楠の木にひとめぼれしたのは
自然な成り行きかもしれません。
夏はほたるも飛んでいて、より幻想的だったりもします。
その木の近くは田畑ばかりで、いつもそこに向かう途中で、畑仕事をしている
おじいちゃんおばあちゃんに声をかけてもらい、野菜やお花を「持って行くか!」
と問答無用で手渡されます。(笑)
まるでわらしべ長者のように帰りはたくさんのお花や野菜を抱えて帰るわけですが
初めての人でも臆せず気軽に話しかける大らかさや、自分の食べるわずかな分
以外はおしみなく人に分け与えちゃうようなあけっぴろげな人情の厚さに
いつもほっとさせられます。
パパに電車の中で知らない人に話しかけられて会話していると、凄く驚かれたり
ママ友についいろいろ押し付けちゃって「momo母は、私のおかんか!?」と笑われる
のですが、たぶんこれは県民ショーではないですが育った環境がそうさせている
ような気がしてきました。
サザエさんな私はよくスーパーで特売ゲットで夢中になって自転車の鍵を
なくしたりするのですが、困っていても見て見ぬふり、他人に関心がないのが
今の土地柄当たり前なんですね。でも、じいちゃん家の近くのスーパーで錆びた鍵が
開かなくなった時、人だかりがすぐに出来て、「家に油とりに行ってくるわ」だの
「自転車屋さん呼んでこようか?」などなど、皆自分の事のように心配してくれて
解決するまで一緒にいてくれました。
こういう人情の厚さ、失敗しても大丈夫、迷惑かけてもお互い様な雰囲気の有難さ
本当に身にしみました。
親が家にいなくても近所のおばちゃん達が他所の子供も自分の子供のように
心配し面倒を見てくれて、おばちゃん達が年老いた時にお返しできるというのが
本来ならば人として一番自然な流れなのかもしれません。
パパは生まれ育った今の環境しかしらないので何とも思わないそうですが
私はももにそういう大らかな環境を用意してあげられなくて申し訳なく思いつつ
こうやってじいちゃん家で人の人情に触れたり、以前のK市でお世話になった
ご近所さん達とは今でも交流があり、実家に帰った時のように迎えてもらったりで
そういう繋がりを宝だと思って大事にしたいなぁと思います。
この地域は暮らすには便利なところですが、老人も余裕がなく孤立していると
感じる事がよくあります。
人を助けないかわりに自分も迷惑かけたくない。それが美学…みたいな
雰囲気を感じます。
なのでバスをたまに利用してももが運賃箱に小銭入れ損ねて運転士さんの手を
わずらわそうものなら、「遅れる」だの物凄いブーイングにあいましたし、
足の悪い方がゆっくり降りようものなら耳を疑う罵倒を聞いた事など何度か
ありました。
駅のターミナルビルの中のスーパーは、病院帰りのお年寄りが断然多く
安売りのスーパーのレジさんと違って、皆お金を払うのが遅くてもせかしませんし、
レジ係が買い物バックに入れてくれたり、タクシーやバスの乗り場まで運んでくれたり
します。ただ、夕方の混む時間などはそういうサービスもなく
「放っておいたら買い物袋に入れるだけで1時間かかりそう…」に見える
お年よりもいて、ついおせっかい虫が疼いて「お手伝いしてもいいですか?」と
してしまうんですけど、そうやってお手伝いさせてもらいつつ世間話をしていると
凄く困っているんだけど、自分の子供にも他人にも迷惑をかけたくない
だから我慢しているんだと話す一人暮らしの老人が多いなぁと思います。
個人の価値観はそれぞれで、田舎のかかわりがうっとおしい人もいれば
逆もあって、それぞれが尊重されるべきなのかもしれませんが、
個人の権利を履き違えた人が多い昨今、お互い様、人情ありきではなく
私はこういうサービスを受ける権利がある!だからちゃんとサービスしろ!
みたいなのに違和感を覚えてしまうのは私だけなんでしょうかね?
なんだか、まとまらない文を書きなぐってしまいました。
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