ご先祖様
お盆なので、仏壇の掃除をして、お盆の用意をして、
お墓参りをしてこようと思います。
現代は、自分の為に生きるという考え方が主流になってきている為、
ご先祖様を敬うという考え方が薄れてきているのかもしれません。
実家も女ばかりで、姉には子供がいないので、
お墓の管理等、ももがやらなければならなくなるのかもしれません。
それは、その時に、ももが決められるようにしておこうと思っています。
私は、明治生まれの祖父母に育てられたために、
小さい頃から、ご先祖様の話をたくさん聞いて育ちました。
先祖が残した家訓も存在しています。
ほとんどは、戦争などで焼けてしまって、紛失してしまいましたが、
脈々と受け継がれ、語り継がれていくものが昔はあったのですね。
そういう育ち方をしていると、自然とあった事のない御先祖様に
対する愛着がわいてきて、仏壇やお墓に手を合わせる気持ちが
産まれるのだと思います。
昔は、一族の系譜をあらわしたものが、菩提寺にあって、
私の先祖の系譜をお寺で見せてもらった事があります。
そういう今の自分の生まで繫いで来てくれたものを感じるという事は
私には、とても大事な事のように思えました。
螺旋状に、命が繫がれて、続いていくイメージが頭の中で浮かびます。
自分は勝手にひとりで生きているのではなく、生かされている存在であるという
事を知る事で、自分自身も他人も大切に出来るのではないでしょうか?
昔は、今のようになりたい職業や人生を自分の意思で選択出来る事は
少なく、家を継ぐという考え方が主流だった為に、小さい頃より、
自分の運命、自分が産まれてきて、この世で果たす役目を刷り込まれ
認識するしかなかったのでしょう。
家族、親族というのは、小さな社会の単位ですから、小さい頃から、
社会の一単位としての自分を見つめながら育つ事で、自分も家族も
守りながら生活したのだと思います。
制約のある中で、自分の役割を果たすという考え方は、現代では
薄れつつあるものです。自分を繫ぐもの、制約するものがない事を
自由と思っているでしょうが、ある視点から見ると、
自由なのに、かえって不自由な現代人の姿が、見えてきます。
人は、制約のある中でこそ、小さな自由を楽しめ、制約ある中で、
社会とのつながり、自分の役目を感じ、人として生きれるのではないでしょうか?
私の子供の頃も、親の事情、家の事情に、子供は翻弄されて、
嫌もへったくれもなく、その事情を呑み込まされてきました。
今の子供は、その時代からすると、親が子供にあわせすぎて
いるようにも思えます。
自分の人生が家庭の事情で決まる部分が大きかった時代なら
なおさら、自分の子供や孫達が上手く生きていける為に、
受け継がれていく必要のある教えや知恵があって、そういう理由でご先祖様を
大切にするという考えが大事にされてきたのかなとも思います。
先祖を大事にするというのは、今の自分、今の家族を大事にするという事にも
繋がりますし、自分の生を肯定するという意味においても、重要な役割が
あるように思えます。
父親も、私も、ある意味、先々代のご先祖様の徳が、まわってきて、
自分達を助けてくれているんじゃないとも思っています。
ただ少子化で、命を繫いでいくにも、担い手の数が激減している今では、
墓守等、出来る限界も確かに存在しているのも事実です。
象徴的な物がなくなれば、思想も消えていかざるを得ないのでしょうか?
なんというか、氏素性というのも、土地の名前も、全てに存在する理由が
あって存在しているものを、表面的に捉えて簡単に葬ってよいものなのか?
日常に忙殺されて、なかなかそういった事を考える機会がないのですが、
ふと、この時期、そんな事を考えてしまいました。
| 固定リンク
« | トップページ | momoの夏休み その1 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント