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2008年9月24日 (水)

見えない、わかりづらい障碍

今年の春、義理の兄が、単身赴任先で、脳溢血で倒れました。
一時は、命の危険もあり、一命を取り留めた後もしばらく意識戻らない
日々が続きました。
数回に及ぶ手術が成功し、奇跡的に意識も記憶も戻りましたが、完全という
わけではなく、いろんな部分に後遺症が残りました。

今も記憶が混乱したり、身体が思うように動かせず、動かしても以前と
違う筋肉を使って動かすので、非常に疲れるし、へんなところがこったり
筋肉痛になったりで、大変です。

また、温厚で、どんな時も、激高したり、厭味を言ったりしない人だったのですが、
性格が変わってしまったと、姉が泣くほど、怒りっぽかったり、厭味を言ったり
するようになったそうです。

高次脳機能障害というそうです。

なんだか、ももと似ているなぁ思いながら、姉の話を聞いてました。
実際、脳のリハビリ訓練は、ももの療育と似たようなプログラムを行うようです。
人が、脳に傷を負うという事は、記憶が混乱したり、身体を動かす命令も
上手くいかなくなり、気持ちのコントロールも出来なくなるという事なんですね。

でも、一見、見た目ではわからない。

それは、高次脳機能障害がどういう障害なのか、頭で理解している姉でさえ、
「仕方がない事」と思いつつも、記憶の改ざんでもって、突然怒りはじめる
儀兄にずっと付き添ってたら、感情が抑えられなくなってしまい、心が疲れて
怒れて泣けてきた。というのです。

いつも姉は、私を励ましてくれてました。出来るだけ前向きに無理やりでも
考えなさいと、そう言ってた人が、です。

障碍の部分を頭で差し引こうとしても、差し引けず、言葉の通りに受け取るしか
なくて、不用意に傷付くことは、こんな風に誰にでも起こるという事なんですね。
日常の中で、その時の精神状態や身体の疲れみたいなものが重なると、
人は、冷静に判断できなくなるのだ。たぶん。。。。

さて、何が言いたいのかというと、連日報道されている事件についてです。

私には、あまりにも生々しすぎて、あえて、触れずにおこうと思っていました。
たまたま、私は、そこまで追い詰められなかっただけだから。

あの事件の報道を最初聞いた時に、その供述の曖昧さに、
「もしかしてお母さん?もしかして、子供は発達障害?」と思いました。
そして、それが現実になりました。

いつもの事ですが、どのコメンテーターも、聞いていて耐えられなくなってしまう程に
面白おかしく、母親を責め立てています。
朝の地元番組で大嫌いな鳥越俊太郎が、頭に来るコメントをしてました。
その後、地元タレントのきよみちゃんが、母親の立場で
「このお母さんは人一倍真面目だったんでしょうね。今の公教育は、子供の違いを
認めず、普通という型に嵌め込むように母親を追い詰めるところがある。
なにしろ、母親にとって、子育てというものがどれほど大変な事か責めるんじゃなく、
ちょっと考えて欲しい」みたいなコメントをしたのが救いでした。

確かに、どんな状況であっても許される事ではないけど、
正論で語れない部分を、強く感じてしまって、ひどくやるせない気持ちに
なってしまいました。

私は、どんな立場のお母さんも、責めたくない。
自分と比較して、あれこれ言いたくない。

正論は時として、非難よりも、人を追い詰める。

そういう私も、同じ立場のお母さん達をなんとか力になりたいと
思いつつ、時に傷つけてしまう事もある。
よかれと思ってやったことも、その人の立場になりきれないと
それは、かえって酷い事になることを思い知った。

同じ母親同士でも、立場の違いで、追い込んでしまう事もあるのに、
相談機関に相談したくらいで、解決するかいな!とも思う。

常に母親は、いろんな人の無意識の「お母さんなんだから」という
責め立てにあっているように私は常に感じてきた。
精一杯やってる、もうこれ以上頑張れない時にも、いつも、どこでも
「お母さん、こうしてあげて、ああしてあげて。お母さん、頑張って」と
言われ続けてきた。
皆、親切で言ってくれてるのはわかるが、辛くて仕方なかった。

出来ない事は、それが世間の常識からかけ離れていても
出来ない、やれないのだ。
なのに、もっと頑張れだの、ああしろだのの包囲網に追い詰められていく。
そういう現実が嫌というほどある。

そういう時に、近所の人達が、「ももちゃん、預かろうか?」と言うと、
遠慮するので、「ももちゃん、少し借りてもいい?」と言って、よく預かってくれた。
困った時は、いろんな人が、さりげなく支えてくれた。

たまたま、私は運がよかっただけ。そう思う。

この夏、私は、いつも支えてくれてる姉のサポートもなくなり、
姉のかわりに実家の認知症のはじまった父の面倒を見て、
ももの勉強も教え、姪達やら親戚やらで、気がついたら相当
追い込まれてしまっていた。

市の障害児一時預かりのサポートも、車の免許を持たない私には、
なかなか登録さえも、バスに乗って、半日かけていく時間がなく、
結局、講演会に無理やりももを連れて行き、親子揃って、無理が
たたって、体調も崩した。

そうやって、ボロボロになってみて、はっと、我に返った。
やばい、ぞ、と。

出来るだけ追い込まれないような工夫をしなきゃいけない、ぞ、と。
お母さん、これお願いします、あれもお願いしますと言われても
出来ません!という勇気を持たないと、潰れてしまう、ぞ、と。

ももの勉強についても、無理やり公教育にあわせて、親子共倒れに
なるくらいなら、切り捨てて、長い視点で考えた教育に切り替える事まで
考えたりもした。

当事者はもちろんだけど、先生も支援者も家族も誰も追い詰められては
いけないはず。
皆で、負担しあって、支えあう、そういう事を今更ながら、強く意識しました。
でも、それも、また難しい問題が、あちこちにあったりして、なかなか
思うようにはいかないのだろうけどね。

人は、誰も、その立場にならないと、人の気持ちなんてわからない。
身近に発達障碍の身内がいない人は、その家族の気持ちがわからなくても
仕方ない。ましてや、見えにくい障碍というものの理解がどんなに
難しい事であるかというのは、身にしみて、自分もわかっている。
だから、世間の無神経なコメントも仕方ないと思う。でも、やりきれない。
[馬鹿コメンテーターの知ったかぶりのコメントには腹立つけど]


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コメント

「弱さ」から出てしまう犯罪は、それを支える環境があったらでなかったのではないか。
そう思ってしまうから、この事件は「怒り」ではなく「切なさ」の気持ちで受け止めてます。

こうしてブログを書いたりしている私達は、例え実生活では名も知らない相手だとしても、それでもどこかにつながっています。実生活でも、何かと動いているから何かしらの繋がりの中でいつの間にか「小さな支え」になってくれる人たちや場に出会っています。

今回切ないなぁと思ったのは、
「特別支援学級」が地元の学校になかったから、住み慣れた母親の実家を離れ引越しをしていること。
母親の体調が悪くなって仕事をやめ、学童保育に預けられなくなった事(と、今日のワイドショーではリポートしてました)。

自分の親の近くにいれば、「自分が面倒を見られなくても・・・」という気持になれたかも知れない。
この辺はわからないけど、事件後実家に身を寄せていたところをみると、母親とその実家との関係はそう悪くはなかったのではないかと思うんです。

これまでの繋がりの中で、母親同士子供同士のネットワークが守れたかもしれない。
これも想像にしか過ぎませんが、幼稚園なり保育園なりからの繋がりの中で、放課後一緒に遊ぶお友だちなどがいたかもしれないと思ったりするのです。
「小学校一年生で母親と一緒に公園」
これだけで、何となくわかってしまうのは、私達がその切なさを知っているからでしょうかねぇ・・。

それから学童保育。
仕事を辞めたせいでいられなくなったという報道が本当なら、なんとも悲しいです。
目の離せない子供がいる親にとって、少し離れた時間が持てる事は、冷静さを保つ大きな要因だと思うから。

インタビューの中で、「元気すぎる位の子」という表現をされている方がいましたが、そうであればその子を「追いかけきれなくなる自分」というのは母親にとって一番イメージしたくないことなのではないかなって、そんなことも思いました。

子どもを手にかけるというその結末には、同情も共感もできませんし、するつもりもないのですけど、
「母親がしっかりしていればこんな事は起こらない。」とか「もっと大変でも頑張っている母親はいっぱいいる。」
で済むことでもないだろうというのが、今の私の気持ちです。

投稿: sei | 2008年9月24日 (水) 01時58分

>「母親がしっかりしていればこんな事は起こらない。」とか「もっと大変でも頑張っている母親はいっぱいいる。」
で済むことでもないだろうというのが、今の私の気持ちです。

自責の念や、自分だけじゃなく他にも大変な人はいるからもっと頑張らないとという気持ちがあるからこそ、こうなってしまっただろうに、そこを責めても、問題は解決していかないんですよね。
共感とか同情ではないですが、親子の置かれた状況が透けて見えてしまうからこそ、あえて解決に繋がらないような正論は言いたくないし、聞きたくないなぁと感じてしまいました。
必要以上に感情輸入するつもりはありませんが、病気ひとつとっても、身体の調子が悪いと、心までもが病気になってしまいますし、大きな生活の変化が3つ以上あると、誰でも鬱になってしまって、判断能力が失われてしまう事などを考えても、私は絶対子供を殺めたりしないし、理解できない酷い母親!と責めてる人にだって、起こりえる現実のような気がして、そこがまた、切なく、恐ろしく思えます。

なんというか、あえて、人間は自分が想像する以上にもろくて、弱いものだという認識を持って、事前にそういった予期せぬ行動に走らないように、意識して予防をする工夫は出来るんじゃないかと思いました。

投稿: momoはは | 2008年9月24日 (水) 10時01分

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