愛情不足
はるえもん先生のブログの記事に、感じるところがあり、
自分なりに「愛情不足と言わないで」について書いてみたいと思いました。
この愛情不足という言葉、姑に最初に言われました。
ももは、抱かれると、反りくり返って嫌がる赤ちゃんだったので、
私は、あまり抱く事をしませんでした。
また、今の療育先の心理士にもよくこの言葉を投げかけられました。
おそらく一般論としてそう話したと思うんですが、
私は、そういう言い方をされる度に、心の奥底で、反発してました。
でも、まがりなりとも、専門家として信じてお願いをしている立場なのだから
そういった感情を呑み込んできました。
先日も、「ちゃんと手をかけて育ってない親は、子供の育て方がわからなくて
虐待に走ったりする、ももははさんは、関係ない話ですけどね。」
と言われたので、
「産まれてすぐに、母が病気だったので、親戚に預けられ、幼い時は
祖父母に育てられていましたので、ほったらかしでしたわ。それでも
人の道を踏み外す事無く、生きてこれましたよ。」
とつい反論してしまいました。
私の父親は、仕事一筋で、家庭を顧みず、時に、イライラを理不尽に
子供にぶつけるような親でしたが、それでも、私は、この親に愛されていると
そう感じてこれたのは、いつもは、ほったらかしだった父も、ここぞという
時は、真剣に子供と向き合って、泣きながら叱ったりされた事が身にしみて
いるからです。
私は、こういったイメージ的な言葉でひとくくりに片付けてしまう事が
どれほど乱暴で、相手を追い込む事か、もっと配慮をして欲しいと
そう強く思いました。
それぞれ、みな背負っている人生の背景は違うのです。
見えているところだけで、その人の全てを決め付けてしまうような、言い方は、
一般の人ならいざしらず、相談を受けるような立場の人間が
それを言うというのは、お里が知れるのではないかと、そうよく感じました。
親も、子供と一緒に育っていくんですよ。
母親だって人間ですから、間違えたり、迷ったり、悩んだりするんですよ。
愛情不足ですっていう言葉は、口当たりがよくて、もっともらしく聞こえますが、
そういう言葉を安易に使う人間は、なかなか信用されないと、そう思います。
また、もものような子供を育てていると、叱らないで下さいと、よく言われました。
まあ、確かに、小さい頃のももに、叱って行儀を教えるのは、かえって
反発を高め、適切な接し方ではなかったと思います。
でも、なんでもかんでも、叱らずに、ももに合わせるというのは、私は
呑み込めませんでした。
愛情があるからこそ、人の道にはずれるような言動に対して、
親が真剣に怒る事は、私は、ありなんじゃないかと、そう思います。
愛情の表出の仕方も、人それぞれ違って当たり前で、
叱り方も、その叱り方が適切でなければ、正しいやり方を教えてくれれば
いいだけで、愛情がないから叱るんだ、みたいな言い方をされると、
猛烈に腹が立ったりしました。〔まあ、押し殺してましたが。。。。。〕
どれほど多くの母親が、愛情がある故に、日々、どれほど悩んで
子供に接しているか、そこも見抜けないで、愛情がないとか
簡単に言うな!と何度、思った事か。。。。。
親の育て方とか、愛情うんぬんとか、よく何か問題があった時に
囁かれますが、同じ腹から産まれて、同じ環境で、同じように愛情を
注いでも、こんなに違うのか!と思うほど、皆違うものです。
父は、10人兄弟の長男として産まれましたので、叔父、叔母を見ていると
本当にそう思います。
毎日、働いて、家事もして、子育てもして、いっぱいいっぱいの母親に
完璧を求める事がいかに馬鹿馬鹿しく現実離れした事か。
子供を助けたいとそう思うなら、まず、お母さんを追い込まず、
助けようくらいの気持ちで接して下さいよ。
そう思います。
先生にしても、同じ保護者にしても、子育てをある一定の型にはめて
断定してしてまう事は、とても危険なことなんじゃないかと、思う事が
たくさんあります。
例えば、目は離さずとも、口は出さず、学校の事は学校に、
喧嘩は子供に任せて親は出しゃばらないのがよしとされますが、
このまま見守っていては、子供がだめになると思えば、
そんな常識など、関係なく、親は、身を呈して子供を守ろうと
するのは当たり前だと思うんです。
その子その子で、その判断も変わってくるはずで、
どこまでが、行き過ぎなのかは、子供をきちんと見て言って欲しいと
そう思います。
その判断を親も、時に間違えながらも、覚えていくんですよ。
批判だけじゃなく、それを自然に支えてくれる、見守ってくれるような
雰囲気があれば、親も子も自然に育っていけるのにな、とそう思います。
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コメント
わたしは実験心理学の出身なのでいわゆる臨床心理の先生方の言動には不信感を持つことが多かったようにおもいます。ある人が攻撃的な人であるかどうかは長期間観察していて、普通の人より攻撃の頻度が多いかどうかで決まるはずです。ほとんどひとを叩いたことがない人がたまたま叩いているのに出くわしてその人を乱暴な人だと決めつけるのはめちゃくちゃな話ですが世の中では起こりがちなことです。ましてや愛情のあるなしはひと月や二月観察しただけではわかるはずはないのです。観察が必要だと言って360日観察しつづけても間違いが生じることはあります。太陽はいつも東から出て西に沈みますので観察する限りでは天動説が正しく地動説は間違いなのです。毎日毎日星を観察し続け星のなかにもいろいろな星があるのがわかり、それぞれの星の軌道計算が成り立って初めて地動説が証明できたのです。現在の臨床心理学も教育学も地動説の段階にあると思いませんか。話が長くなりそうなので今日はこれくらいにしておきます。今日のところはお母さんのご意見に全面的に賛成です。
投稿: Don | 2008年7月 1日 (火) 11時01分
カウンセリングや療育で、言葉のすり替えに思えてしまうような表現は適切ではないと思ってしまいます。特にこの言葉は、安易に使って欲しくないと常々、思っていました。
餅は餅屋にお願いするのが、一番合理的かつ、間違いがない方法だと確信しておりますが、信頼のおける腕のいい専門家を見つけるのは、非常に困難な事だと痛感しております。
腕のいい専門家は、竹の子の家さんは就学前児童限定で数年の待機、奥田先生にしても5年待ちだそうで、職人技で救われる子供はほんの一握りな状況です。
セミナー後の懇談会などで、子供の問題行動に追い詰められ、毎日が地獄のようだと泣きながら話した母親を何人も見てきました。
私も、私の出来る範囲で、腕のよい行動療法家がたくさん育つような環境づくりに声をあげていきたいと思っています。人が要ですから。
我が県の教育現場は、また独特の背景があり、学閥とか、政治的なスクールカウンセラー〔臨床心理士〕の闘争もあるようで、ひときわ、時代遅れな閉鎖的な風習が背景にあるようにも感じられてしまいます。
中世時代と同じレベルとの辛口コメントに思わず笑ってしまいましたが、我が県は、そのくらい遅れているかもしれませんね。
一部に先進的な管理職の方もいらっしゃいましたが、想像を絶する批判と圧力があったと伝え聞いております。
ですので、教育現場に正面から切り込んでいくのは諦め、遠回りでも、協力していただける人や場所を見つけて、広げていく努力をしようと考えています。
昨今、日増しに行動療法に対する注目が高まっていると感じております。
久野先生の思考に今の臨床心理学や教育会が追いつくのは、まだ数年かかるのかもしれません。
投稿: momoはは | 2008年7月 1日 (火) 21時12分
StrategyとTactics
あなたにはStrategyはあってもTacticsがないと指摘してくださった方がおられます。いわゆる兵法はもっていても臨機応変に事態を読み取って策を弄する細かい戦略を欠くというのがわたしの生き方に対する批判なのです。この天は15年も前に出版した『行動療法』で述べたところですが、この本が意に反して再販されませんでしたのでStrategyとTacticsの違いについてi紹介する書物はその後あらわれていません。この2つの用語は相互互換性のある用語としてつかわれていますのでこの2つを厳密に区別しようとするそのことが久野理論が世の中に受け入れられない理由かもしれません。いくら正しいことを主張しているつもりでもそれが伝わらなければ意味がないのです。たとえば人工乳より母乳の方が乳児のために良いとわかっていてもそれをsとレートに伝えてもうけいれられないのでおっぱいを子供に吸わせた方がおっぱいの形もよくなりお母さんの色つやも美しくなるといいますと若いお母様方は率先して乳房をわがこに含ませるようになる、というのがTactics
なのです。御用学者はそのあたりの臨機応変な戦略に長けておられますので本屋さんに河合隼雄コーナーができたり、文化庁長官になれたりするのです。方や久野先生の方は久野コーナーはおろか1冊の著書さえ再販されることなくいまや命尽きようとしているのです。
昔昔、スポック博士の育児書というのが国際的なブームとなり、それお手本に子育てに専念した結果今の英国大室が存亡の危機にめんしているのです。
投稿: Don | 2008年7月 4日 (金) 10時00分
ビジネスの世界では、結果が全て、数字が全てで、
StrategyとTacticsの両方必要でしたが、
あまり目先ばかり、小手先に捕らわれすぎると、よい結果は得られませんから、StrategyありきのTacticsだと
思っておりました。
優れたStrategyがある者は、大成しているようにも思えます。
先生のおっしゃるTacticsは、政治的意味合いの強い、Strategyなき、小手先の戦略に長けた者というようにも感じられますが、
嘘も方便で歓迎される範囲であれば、それもまたありではないかと思いますが、あまりに小手先の戦略に長けていると、それはそれで、いつかは多くの人に呆れられてしまうのではないでしょうか?
本物は、必ず、淘汰されて、生き残るものだと思います。
コメントありがとうございました。
投稿: momoはは | 2008年7月 4日 (金) 21時46分