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2008年1月10日 (木)

いじめについて

自分自身の過去の体験を踏まえて少し書いてみたいと思います。
いじめというのは人間の根源的な欲望のひとつの形なのかもしれません。
なので、完全になくすというのは出来ないでしょうが、
陰湿ないじめについては、環境による働きかけでなんとかなるのではないかと
そう考えています。

いじめに加担しないから、いじめられるという事を昔経験しました。
いじめの標的にあっていた友達は、勉強のよく出来る
学級員タイプの女の子でした。
それは突然、ゲームのようにはじまりました。
その子の机や持ち物を、その子の菌がついているから触らないとか、
投げて遊ぶとか、そういう事が突然はじまりました。
誰も、そのゲームの中核の人物に対して注意もしません。
ある日、いじめの輪に入ってと言われましたが、私はどうしても嫌で
拒否しました。
と、同時に、それまで心の中で溜めておいた想いがあふれて、
その卑怯ないじめに対して抗議しました。
クラスをまとめる役目で、先生にもいじめられている子を助けてあげるように
言われていましたので、誰も注意できないのなら、自分がと思ったのです。

しかし、その行動は裏目に出ました。
次の日、自分の持ち物がぐちゃぐちゃにされていて、その日から
自分がいじめゲームの標的にかわったのでした。
一番、ショックだったのは、自分がかばった子が、いじめの中心人物に
命じられて、率先していじめをしてきたことです。
それは数ヶ月、執拗に続きました。
助けるようにと言っていた先生も、その中心人物に仕返しをされるのが
怖くて、助けるどころか、その生徒のご機嫌をとっていました。
なにをされても極力無視を通し、動じないように必死に自分に言い聞かせ
ました。
そのうちに、クラスの何人かが「自分は、標的になるのが怖くて、嫌と言え
なかったけれども、ずっと辛かった」と心のうちを話して、助けてくれる
友達が増えていき、そのうちにいじめは収まりました。
まあ、それ以外にも、中心人物と共通の知り合いの先輩に相談して
先輩がその子にいじめるな!と忠告してくれたとか、
カッターで切りつけられた時の傷やその他の証拠物を持って警察に駆け込む
と中心人物に言ったりした事が、収まるきっかけのひとつになったと思います。
今のいじめは、当時よりもずっと陰湿なものと伝え聞いていますので、
自分で解決の手段が考えられなければ、死に逃げるというのも容易に理解できます。

後になって、父親にその時の事と、先生の対応を話したら、
「学校に殴りこんでいくぞ!いじめた奴は俺が…」と怒り狂ってましたが、、、。
強いものに巻かれ、弱いものに対して冷淡な、その時の担任の事は
今でもよく覚えていて、大人のずるさを嫌というほど、学習させて
もらいました。
のちに、その担任は、二枚舌、好かれようと子供にこびる先生とみんなに
嫌われていました。

ある意味、いじめをかばって自分がいじめにあうというのは、
自分の不器用さが招いた結果なんですが、
大人になった今であれば、もう少し、助けてくれそうな大人を見つけて
密告するとか、いろいろ方法も思いつくんですが、ね。
というか、今でも、不器用にまっすぐ体当たりしてしまう癖は
完全になおってないのですが、
いじめの中心人物が抱える心の闇と、それに加担している子供達の
心の傷も考えると、はやり、たくさんの大人で見守ることなんだと思います。

いじめ自殺があった中学では、休み時間も先生が教室にいて、次の教科
の先生に教室で引継ぎして、子供だけの時間をつくらない努力をしていましたし、
地域全体で子供達を見守り、気になる子供には注意をうながしたり、
助けになるように積極的に活動している様子をテレビでみました。

いじめじゃないけど、仲良しならいつも手をつないでいるとか、
持ち物をおそろいにするとか、トイレも自分がしたくなくても
「行ってくれる?」と聞いて、どこへでも一緒に行動するというのを
暗黙の了解で強要された女子校時代も、つらかったなぁ。
ある意味、そういう友達関係というかグループみたいなものが凄く苦手でした。
男に産まれてきたかった!と何度おもったことか!
ですので、大人になって、そういったことから開放されて、すごく楽に
なったんですが、あれも必然だったんでしょうか?

日本社会は村社会なんですよね。
村という集団でその村のならわしに従わないものを村八分にしたわけですから
今でもそういった同じが安心という記憶がDNAレベルで受け継がれているのかも
しれませんね。
昔は、村長なりが村をまとめ管理するかわりに、仲裁に入ったり、村全体で
支えあう機能もあったのでしょうが、
今は、他人に対してある意味無関心ですので、問題が表面化、深刻化
しているのかもしれません。
小さい子供でも、産まれながらに、違いを敏感に察知して、差別するのを
何度も見ましたが、育て方というよりも本能みたいなものに映りました。

脳ある鷹は爪を隠すじゃないですが、日本で上手く生きてゆくには
お金持ちであっても、それを隠して生きないと足を引っ張られる。
というのは、いろんな有名な企業家が語り継いでますが、
それだけ、日本人のねたみそねみは激しいということなんだと思います。
よくも悪くも、同じじゃないものを差別しようとするんだと思います。
我が家はお金持ちではありませんが、母が不器用が故にあってきた
いろんな痛い目にあわない術も、学んでいって欲しいと思うのですが、
本人の特性もあるし、母譲りの頑固さもあるかと思うと、
波の多い人生なのかもなぁと思ったりしています。
私は、自分は自分を通してきましたが、それには痛みも伴いますので
上手に、痛むことなく、自分を通せる術を見つけて生きてほしいですね。
ある意味、上手くが出来なくても、そういう自分を受け入れて
開き直ることで強くなれる場合もありますし、常に否定を肯定に変えて
ゆけるような言葉かけなりをしてあげたいですね。

また、人には強要しないけれども、自分なりに、地域の子供達を守って
いきたいとは考えています。
電車で席をぶんどって宴会しているような高校生にも、感情を煽るような
言い方をしなければ、皆、すいませーんって聞いてくれますがねぇ。
話して理解してくれて、ありがとうねって言えば皆、いい笑顔を返してくれます。
大人が自分の保身ばかり気にして、注意してくれないのを彼らはよく
わかってやっているのかな?と思う時もあります。

なんだか言いたい事がまとまらない文になってしまいました。

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